親鸞聖人のご著作
このページについて
親鸞聖人のご著作の概略を紹介するページですが、いずれのブロックの文章も基本的に『浄土真宗聖典注釈版』(第二刷)を引用しています。
顕浄土真実教行証文類(けんじょうどしんじつきょうぎょうしょうもんるい)
全体について
本書は親鸞聖人の主著で、『教行信証』『教行証文類』『広文類』『本典』などとも称され、浄土真宗の教義体系が示されている。すなわち本願力回向を往相・還相の二回向に分け、その往相の法義を教・行・信・証の四法として明かされたもので、立教開宗の根本聖典である。初めに総序があり、続いて教・行・信・証・真仏土・化身土と六巻に分けて詳細に宗義が明かされ、終わりに後序がある。
教巻について
真実の教とは、釈尊の説かれた『仏説無量寿経(大経)』であって、本願を宗とし、名号を体とする釈尊出世本懐の教である。この経に説かれた法義が、次の行信証の因果である。
行巻について
第二の行とは、本願の名号であって、破闇満願の力用をもち衆生を往生成仏させる行法である。
信巻について
第三の信とは、この行法を領受した三心即一の無疑の信心をいう。この信の体は名号であり、また仏の大智大悲心であるからよく真実報土に到って涅槃のさとりを開く因となる。これを信心正因という。
証巻について
第四の証というのは験現という意味で、如来回向の行信の因が、果としてあらわれることをいう。この証果は弥陀同体のさとりであり、涅槃とも滅度ともいう。またこの証果の悲用として、衆生救済の還相が展開するという。
真仏土巻について
「信巻について」の最後で述べたような証の現れる境界が第五の真仏真土であって、光明無量・寿命無量の大涅槃の境界である。それは同時に往還二回向のおこる本源でもある。
化身土巻について
前に述べた教巻から真仏土巻の五巻で顕真実の法義は終わるが、第六化身土巻において、権仮の教と邪偽の教とを区分して明かされる。権仮の教とは、聖道門と浄土門の方便教である要門、真門のことである。また邪偽の教とは、仏教以外の外道のことをいう。このように「仮」と「偽」を簡ぶことによって、いよいよ真実の教を明らかにされるのである。
浄土文類聚鈔(じょうどもんるいじゅしょう)
総体的なことについて
『教行信証』(広文類)が、仏典だけでなく、他の典籍までも引用して、広い視野のもとに浄土の教相を明らかにしようとしているのに対して、本書は、浄土三部経と龍樹菩薩・天親菩薩・曇鸞大師・善導大師の四師の論釈を引くのみで簡略化されているところから『略文類』(略典)ともいわれる。しかし内容は、教・行・証の三法を中心にその基本的な意味を明らかにし、また往相・還相についても要点を説き、さらに三心一心を論じて、『大経』『観経』『小経』の三経が一致して浄土往生の真因は本願力回向の信心であることを述べて、いわば『教行信証』の肝要が記されている。
制作年代について
製作年代は明らかでなく、特に『教行信証』との前後関係について、広前略後、略前広後の両説があって、容易に決しがたいが、おそらく『教行信証』の推敲が重ねられるなかで、その大綱を別な観点から構成して作られたのではないかと考えられる。
『教行信証』との内容比較
「真仏土巻」「化身土巻」に対応する内容を省いているのは、『教行信証』を前提としているからであろう。とくに大行を釈するなかに、大行・浄信を併記して行から信を開き、また『大経』の第十七願・第十八願成就文を一連に引き、あるいは行一念の釈に続いて、成就文の信一念を釈するなどは、行信不離を明らかにするものであろう。いわゆる行信論の核心が、ここに示されていると見ることができる。
『教行信証』が、親鸞聖人の教えをあらわす根本聖典であることは言うまでもないが、本書は『教行信証』の構成や内容の重点を知り、その理解を助けるものとして極めて大きな意義を持つ著作である。
愚禿鈔(ぐとくしょう)
構 成
本書は上下二巻に分れているところから、『二巻鈔』とも称される。上巻は、仏教全体のなかでの浄土真宗の教えの意義を、親鸞聖人独自の教相判釈によって示し、下巻は、とくに善導大師の『観経疏』の「三心釈」について、その内容が整理されている。
成 立
本書の成立は、古写本の奥書によって、一応聖人晩年の撰述と考えられるが、その内容から、法然上人門下での研鑽期における覚書を後に整理されたものとする説もあり、確定しがたい。聖人ご自身の解釈や説明は少なく、ほとんど項目だけが列挙されているようにみえるが、構想そのものには、聖人独自の発揮がある。
内 容
上巻の教判は「二双四重」と呼ばれ、仏教を大乗・小乗、頓教・漸教、難行・易行、聖道・浄土、権教・実教等と分類した従来の説をうけながら、竪超・横超、竪出・横出という二双四重の対立概念で区分し、本願他力の教えこそ、「横超の一乗真実の教」である旨を示されるのである。また上巻の前半では教法が、後半ではその教法を受ける機が分類されている。
下巻では、善導大師の「三心釈」を引いて、三心の真仮と、行業の真仮分別等が詳細に示されている。また「二河の譬喩」をめぐって、詳細な解釈が施されている。
入出二門偈(にゅうしゅつにもんげ)
構 成
本書は、天親菩薩の『浄土論』の入出二門と、曇鸞大師・道綽禅師・善導大師の釈義についての散弾の偈頌である。
内 容
初めに『浄土論』の「願生偈」によって、天親菩薩が真実の教によって阿弥陀仏に帰命されていることを讃え、さらに曇鸞大師の解釈にもとづいて、「願生偈」がまったく阿弥陀仏の本願力を讃嘆するものと理解されている。
すなわち礼拝・讃嘆・作願・観察・回向の五念門と、それに応ずる近門・大会衆門・宅門・屋門(以上が入の四門)・園林遊戯地門(以上五門)の五功徳門(入出二門)について、元来は往生人の所修として論じられていたものを、親鸞聖人はすべて法蔵菩薩の修められたところとみなし、「眼力成就を五念と名づく」といわれている。こうした解釈は、曇鸞大師が『浄土論』の文にしたがって五念門を修行者である菩薩の行として論じつつ、最後に五念門の因果が「阿弥陀如来を増上縁とする」ことを明らかにし、他利利他の尺をなされた意をうけて、親鸞聖人が釈顕されたものである。
さらに道綽禅師の聖浄二門の釈義を讃え、善導大師が念仏成仏の法門を真宗といい、一乗海と呼び、信心の行者を称賛されたことを述べられている
三帖和讃(さんじょうわさん)
三帖和讃について
和讃とは和語をもって讃嘆する詩という意味で、親鸞聖人が撰述された今様形式の和讃は五百首を超える。とくにそのなかで、『浄土和讃』『高僧和讃』『正像末和讃』をまとめて「三帖和讃」と呼ばれている。
浄土和讃(じょうどわさん)
『浄土和讃』(百十八首)は、経典などによって阿弥陀仏とその浄土の徳を讃嘆したもので、「冠頭讃」二首、「讃阿弥陀仏偈讃」四十八首、「大経讃」二十二首、「観経讃」九首、「弥陀経讃」五首、「諸経讃」九首、「現世利益讃」十五首、「勢至讃」八首からなっている。とくに「讃阿弥陀仏偈讃」のはじめの六首は、「正信念仏偈」とともに門信徒が朝夕読誦する和讃で、ひろく知られている。
高僧和讃(こうそうわさん)
『高僧和讃』(百十九首)は、「正信念仏偈」の依釈段と同様に、龍樹菩薩・天親菩薩・曇鸞大師・道綽禅師・善導大師・源信和尚・源空上人というインド・中国・日本の三国にわたる七人の浄土教の先達の教えを、その事績や著作に即してわかりやすく讃嘆されたもので、「龍樹讃」十首、「天親讃」十首、「曇鸞讃」三十四首、「道綽讃」七首、「善導讃」二十六首、「源信讃」十首、「源空讃」二十首と「結讃」二首からなる。
正像末和讃(しょうぞうまつわさん)
『正像末和讃』(百十六首)は、その成立が聖人八十五歳以降とみられ、最晩年の信境の深まりと、三時通入の本願念仏の讃仰の気持ちがよくうかがわれる。「夢告讃」一首、「正像末浄土和讃」五十八首、「誡疑讃」二十三首、「皇太子聖徳奉讃」十一首、「愚禿悲嘆述懐」十六首、「善光寺和讃」五首、それに「自然法爾」の法語と二首の和讃が終りに納められている。
浄土三経往生文類(じょうどさんぎょうおうじょうもんるい)
はじめに
略して『三経往生文類』ともいう。「三経往生」とは大経往生、観経往生、阿弥陀経往生のことである。
大経往生(だいきょうおうじょう)
大経往生とは、『大経』にもとづいて阿弥陀仏の第十八願の法を信じ、現生に正定聚に住して真実報土の往生をとげることであり、これを難思義往生(なんじぎおうじょう)という。ここでは、第十八願・第十一願の願文や成就文によってそれが示され、さらに『論註』の文で助顕されている。なお本書には広略の二本があるが、本聖典依用の広本では、この大経往生の部分で第十七願の願文や成就文が加えられている。
観経往生(かんぎょうおうじょう)
観経往生とは、『観経』顕説の教えにもとづいて、自力心をもって諸善万行を修し、方便仮土に往生することであり、これを双樹林下往生(そうじゅりんげおうじょう)という。ここでは、第十九願の願文と成就文、第二十八願の成就文、『悲華経』の文によってそれが示され、さらに『往生要集』の文によって報土と仮土の違いがあらわされている。
阿弥陀経往生(あみだきょうおうじょう)
阿弥陀経往生とは、『小経』顕説の教えにもとづいて、自力の称名を行じ、七宝の牢獄といわれる疑城胎宮に往生することであり、これを難思往生(なんじおうじょう)という。ここでは、第二十願の願文・成就文によってそれが示され、「定善義」や『述文賛(じゅつもんさん)』の文で助顕されている。
さいごに
このように本書は、いわゆる三願・三経・三往生という真宗教義の基本を簡潔に述べたものである。
尊号真像銘文(そんごうしんぞうめいもん)
題号について
本書題号の「尊号」や「真像」とは、礼拝の対象とされていたものを指している。「尊号」とは本尊としての名号という意味で、六字・九字・十字などの名号があるが、その銘の文からみて恐らく十字名号であろうと推定される。また「真像」とは善導大師・法然上人などの浄土真宗伝統の祖師方の肖像画のことである。そしてそれらの名号や画像の上下に書かれた経・論・釈の讃文のことを「銘文」という。したがって本書は、親鸞聖人が、その当時に本尊として安置された名号や祖師の画像の銘文を集め、そのこころを解説されたものである。しかし、どの讃文がどの真像の銘文にあたるのかは、にわかには判断しがたい。
内容について
本書には広略二本があるが、本聖典依用の広本では、本末二巻に分かれ十三種二十一文があげられる。本巻は『大経』の三文、『首楞厳経』の一文、「十住毘婆沙論」の一文、『浄土論』の二門、迦才の一文、智栄の一文、善導大師の一文、太子礼讃の二文、末巻は源信和尚の一文、劉官(隆寛)の一文、法然上人の三文、聖覚法印の一文、親鸞聖人ご自身の一文からなっている。
全般的に言えば、冒頭に挙げる『大経』の第十八願に誓われた本願力によって、どのような悪人も本願を信ずる一念に正定聚に住し、往生を遂げて成仏の証果をうるという浄土真宗の肝要を、それぞれの銘文によって解説し、そのことを示された祖師方を讃嘆されたものである。
一念多念文意(いちねんたねんもんい)
はじめに
本書の親鸞聖人真蹟本の表紙には『一念多念文意』と題されているが、また『一多証文』『証文』とも称される。同じ法然上人門下の隆寛律師が著された『一念多念分別時(いちねんたねんふんべつのこと)』に引用された経釈の要文、および関連する諸文をあげて、それに親鸞聖人が注釈を施されたものである。
内 容
法然上人門下におこった一念多念の諍論に対して、一念や多念に偏執してはならないことを諭されたのが隆寛律師の『一念多念分別事』であり、その意を受けてなったのが本書であるが、内容を二段にわけ、前段を「一念をひがごととおもふまじき事」として、一念に関する要文を十三文(あるいは十四文)引証し、また後段を「多念をひがごととおもふまじき事」として、多念に関する要文八文を引証される。そして専修念仏は一念多念のいずれも偏執せぬ、念仏往生の義であることを明らかにされた。
しかも本書の前段に引かれる十三文(または十四文)の証文のうち、『一念多念分別事』からの引文はわずかに三文(または四文)であり、また後段では八文のうちの五文ほどが同書からの引文であることなどからしても、本書が単なる『一念多念分別事』の注釈書ではないことが知られるのである。
唯信鈔文意(ゆいしんしょうもんい)
はじめに
本書は親鸞聖人が、同じ法然上人門下の先輩にあたる聖覚法印の著された『唯信鈔』について、その題号および引証された経釈の要文に注釈を施されたものである。このなか題号の釈および初めの三文(法照禅師の『五会法事讃』の文、慈愍三蔵の文、善導大師の『法事讃』の文)の釈が詳しく、重要な法義上の釈顕がみられる。
内 容
聖人が『唯信鈔』を尊重され、また門弟にしばしばこれを熟読するよう勧められていることは、御消息の記事や数回にわたる写伝の事実などから知られるところであるが、『唯信鈔』に引用される経釈の文について、聖覚法印は詳細な解釈は施されていない。本書は巻末の文からもうかがえるように、この『唯信鈔』の要文を注釈し、人々に領解しやすいように懇切に説き示されるとともに、「極楽無為涅槃界(ごくらくむいねはんかい)」の癪に見られるような深遠な解釈を施して、浄土真宗の法義をより明らかにされたものである。
如来二種回向文(にょらいにしゅえこうもん)
内 容
本書は往相回向・還相回向について釈されたものである。初めに、『浄土論』の回向の文を釈して、本願力の回向に往相と還相の二種があることを示し、その往相回向に真実の行・信・証のあることが説かれる。続いて第十七・十八・十一願文が引用されて、行・信・証のそれぞれがこれらの願にもとづいていることが示された後、真実信楽(しんぎょう)によって正定聚(しょうじょうじゅ)に住する信心正因の意義が明かされる。続いて『如来会』の第十一願文が引用され、等正覚・次如弥勒について釈される。次に『浄土論』の出第五門の文によって、還相回向をあらわし、第二十二願文を引用して、還相がこの願にもとづいていることを明かされる。最後に、自利利他ともに法蔵菩薩の誓願にもとづき、、行者のはからいではないと結ばれている。
終りに
浄土真宗の立教開宗の書である『教行信証』は、往相・還相の二回向のなか、往相の四法である教・行・信・証と真仏土を広説されているが、本書は、そのうちの二回向を中心にして阿弥陀仏の救済の構造を略説されたものである。
なお、本書と『三経往生文類』略本とが統合整理されて、『三経往生文類』広本が成立したとも推察されている。
弥陀如来名号徳(みだにょらいみょうごうとく)
はじめに
本書は完本ではなく一部落丁があり、全体の構成は推定にたよるしかない。
構 成
本書の構成を述べれば、まず十二光の一々について釈される。すなわち無量光・無辺光・無碍光・清浄光・歓喜光・智慧光・無対光・炎王光・不断光・(欠落)・超日月光の順に、そのはたらきを示される。
続いて再び無碍光の釈があり、「帰命尽十方無碍光如来」(十字名号)について釈され、難思光・無称光の釈の後、両者が合されたものとして、「南無不可思議光仏」(八字名号)について釈されている。
このうち十二光の釈の一部(難思光・無称光か)と、「帰命尽十方無碍光如来」、「南無不可思議光仏」のそれぞれの釈の中間を欠いている。
終りに
なお、「南無不可思議光仏」の釈の前にも、難思光・無称光・の釈があるが、超日月光の釈の後に、「十二光のやう、おろおろかきしるして候ふなり」とあることから、超日月光の釈までに一応十二光の釈が済んでいるとみるべきであろう。
本書の題名が「名号徳」とあり、十二光の釈からの名号の釈に移っていることからみて、光明は名号の徳義をあらわすものであるという領解を示されたもので、一部を欠いているとはいえ大切な聖教の一つである。
親鸞聖人御消息(しんらんしょうにんごしょうそく)
内 容1
本書題号の「御消息」とは、親鸞聖人が関東から京都に帰られて遷化されるまでに、関東各地の門弟に与えられた手紙のことである。四十三通あって、そのほとんどは、『御消息集』『血脈文集』や従覚上人が編集された『末灯鈔』などに収録されているが、近年公表された真蹟消息や古写本等も含まれている。その内容は門弟の質問に対する返事や聖人の身辺のことであり、門弟からの懇志に対するお礼に添えて書かれたものなどもある。これらの消息集におさめられたものには、互いに重複するものや、真蹟などとの異同が認められるものがある。このため『原典版』では、年代の確定できるものおよび年代の推定が確実視されるものを年代順に、次いで年代の確定に疑問が残るものおよび年代が不明のものを月日順に配列する編綴方法をとった。そして本聖典では、各消息の簡単な内容紹介と消息集諸本における該当通数とを各通の初めに示した。
内 容2
この消息を通して、関東の門弟たちの間で、教義的にどのようなことが問題になっていたかを推測することができる。誓願名号同一や「如来とひとし」ということについての説明、また造悪無礙の意義に対する厳しい批判などがそれである。さらに念仏停止の訴訟に関することや善鸞義絶と関連するものがいくつか見られることも注意すべきである。その他、「自然法爾章」のような短篇の法語も収録されている。
全体としては、晩年の聖人の信心の領解がうかがわれるとともに、指導者としての聖人の態度や門弟の信仰態度などを知ることができ、初期の真宗教団の動静をうかがうのに欠かせないものである。