親鸞聖人御自釈の文
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はじめに
親鸞聖人の主著『顕浄土真実教行証文類』は文類と親鸞聖人が題名につけられているように、たくさんの経典・菩薩さまの書かれた論・高僧方の書かれた釈が引用されたご書物ですが、その中、親鸞聖人がみ教えのお味わいをご自分のお言葉で書かれたところがあります。それを「御自釈」といいます。
たくさんの御自釈の文があり、一度には紹介できませんので、月ごとに紹介したいと思います。もしかしたら、紹介を忘れることもあるかもしれませんが、お許しいただきながらご一読いただければと思います。
9月の御自釈
出願(しゅつがん・註釈文)
然るにこの行は大悲の願より出でたり。すなわちこれ
① 諸仏称揚の願(しょぶつしょうようのがん) と名づく、また
② 諸仏称名の願(しょぶつしょうみょうのがん) と名づく、また
③ 諸仏恣磋の願(しょぶつししゃのがん) と名づく、また
④ 往相回向の願(おうそうえこうのがん) と名づくべし、また
⑤ 選択称名の願(せんじゃくしょうみょうのがん) と名づくべきなり。
出願(しゅつがん・現代語訳)
ところで、この行は大悲の願(第17願)よりでてきたものである。この願を諸仏称揚の願と名付け、また諸仏称名の願と名付け、また諸仏恣磋の願と名付ける。また往相回向の願と名付けることができるし、また選択称名の願とも名づけることができる。
6月の御自釈
弁徳(べんとく・註釈文)
この行(ぎょう)はすなはちこれもろもろの善法(ぜんぽう)を摂し、もろもろの徳本(とくほん)を具せり。極速円満(ごくそくえんまん)す、真如(しんにょ)一実(いちじつ)の功徳(くどく)宝海(ほうかい)なり。ゆゑに大行(だいぎょう)と名づく。
弁徳(現代語訳)
この行(ぎょう)は、あらゆる善(ぜん)をおさめ、あらゆる功徳(くどく)をそなえ、速やかに衆生(しゅじょう)に功徳を円満(えんまん)させる。真如一実(しんにょいちじつ)の功徳が満ちみちた海のように広大な法である。だから、だいぎょう(だいぎょう)というのである。
5月の御自釈
大行釈(だいぎょうしゃく・註釈文)
謹(つつし)んで往相(おうそう)の廻向(えこう)を按(あん)ずるに、大行(だいぎょう)あり大信(だいしん)あり。
大行釈(だいぎょうしゃく・現代語訳)
つつしんで、往相の回向をうかがうと、大行があり、大信がある。
出体(しゅったい・註釈文)
大行(だいぎょう)とはすなはち無碍光如来(むげこうにょらい)の名(みな)を称するなり。
出体(しゅったい・現代語訳)
大行とは、無礙劫如来の名号を称えることである。
(註)無碍光如来 ……阿弥陀如来の徳をあらわす名。智慧の光をもって照らし、
さわりなく衆生を救いたもう如来という意。
1月の御自釈
六句嘆釈(ろっくたんしゃく・註釈文)
誠にこれ、
①如来興世の正説(にょらいこうせのしょうせつ)、
②奇特最勝の妙典(きどくさいしょうのみょうでん)、
③一乗究竟の極説(いちじょうくきょうのごくせつ)、
④速疾円融の金言(そくしつえんにゅうのきんげん)、
⑤十方称讃の誠言(じっぽうしょうさんのじょうごん)、
⑥時機純熟の真教(じきじゅんじゅくのしんきょう)、 なりと知るべしと。
六句嘆釈(ろっくたんしゃく・現代語訳)
まことに『無量寿経』は、
如来が世にお出ましになった本意を示された正しい教えであり、
この上なくすぐれた経典であり、
すべてのものにさとりを開かせる至極最上の教えであり、
速やかに功徳が満たされる尊い言葉であり、
すべての仏がたがほめたたえておられるまことの言葉であり、
時代と人々に応じた真実の教えである。 よく知るがよい。
12月の御自釈
経の宗体・出世本懐(現代語訳)
(経の宗体そこで、阿弥陀仏の本願を説くことをこの経の要とし、仏の名号をこの経の本質とするのである。
(出世本懐)
どのようなことから、この経は釈尊が世にお出ましになった本意を述べられた経であると知られるのかというと、
『無量寿経』に説かれている。(以下経文)
『如来会』に説かれている。(以下経文)
『平等覚経』に説かれている。(以下経文)
憬興が『述文賛』にいっている。(以下文章)
すなわち、これらの文は、真実の教を顕す明らかな証である。
経の宗体・出世本懐(註釈文)
(経の宗体)
ここをもって如来の本願を説きて経の宗致とす、すなわち 仏の名号をもって経の体とするなり
(出世本懐)
何をもってか出世の大事なりと知ることを得るとならば、
「大無量寿経」に言く。と
「無量寿如来会」に言く。と
「平等覚経」に言く。と
憬興師の云く。
しかればこれ真実の教を顕す明証なり。
11月の御自釈
顕浄土真実行文類 大行釈 出体 弁徳(註釈文)
謹んで往相の回向を按ずるに、大行あり大信あり。
大行とは すなわち無礙劫如来の名(みな)を称するなり。
この行は すなわちこれ諸の善法を摂し、諸の徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。かるがゆえに大行と名づく。
顕浄土真実行文類 大行釈 出体 弁徳(現代語訳)
つつしんで往相の回向をうかがうと大行があり、大信がある。
大行とは、無礙劫如来の名号を称えることである。
この行は、あらゆる善をおさめ、あらゆる功徳をそなえ、速やかに衆生に功徳を円満させる、真如一実の功徳が満ちみちた海のように広大な法である。だから大行というのである。
10月の御自釈
総標綱紀・如来の四法・出体・経の大意(注釈文)
(総標綱紀)
謹(つつし)んで浄土真宗を按(あん)ずるに二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。
(如来の四法)
往相の回向について真実の教行信証あり。
(出体)
それ真実の教を顕さばすなわち『大無量寿経』これなり。
(経の大意)
この経の大意は、弥陀、誓(ちかい)を超発(ちょうほつ)して、広く法蔵を開きて、凡小を哀(あわれ)んで功徳の宝(ほう)を施することを致す。
釈迦、世に出興(しゅっこう)して道教(どうきょう)を光闡(こうせん)して群萌(ぐんもう)を拯(すく)い、恵むに真実の利をもってせんと欲(おぼ)すなり。
総標綱紀・如来の四法・出体・経の大意(現代語訳)
つつしんで、浄土真宗すなわち浄土真実の法をうかがうと、如来より二種の相が回向されるのである。一つには、私たちが浄土に往生し成仏するという往相が回向されるのであり、二つには、さらに迷いの世界に還って衆生を救うという還相が回向されるのである。
往相の回向のなかに、真実の教と行と信と証がある。
その真実の教を顕せば、『無量寿経』である。
この経の大意は、阿弥陀仏はすぐれた誓いをおこされて、広くすべての人々のために法門の蔵を開き、愚かな凡夫を哀れんで功徳の宝を選び施され、釈尊はこの世にお出ましになり、仏の教えを説いて、人々を救い、まことの利益を恵みたいとお思いになったというものである。
9月の御自釈
遇聞の喜(註釈文)
ここに愚禿釈(ぐとくしゃく)の親鸞、慶ばしいかな、西蕃月支(さいばんがっし)の聖典(しょうてん)、東夏日域(とうかじちいき)の師釈(ししゃく)に、遇(あ)い難くしていま遇うことを得たり。聞き難くしてすでに聞くことを得たり。
遇聞の喜(現代語訳)
ここに愚禿釈の親鸞は、よろこばしいことに、インド・西域の聖典、中国・日本の祖師方の解釈に、遇いがたいのに今遇うことができ、聞きがたいのにすでに聞くことができた。
造書の意(註釈文)
真宗の教行証を敬信(きょうしん)して、特(こと)に如来の恩徳深きことを知んぬ。ここをもって、聞く所を慶び獲(う)る所を嘆ずるなりと。
造書の意(現代語訳)
そしてこの真実の教・行・証の法を心から信じ、如来の恩徳の深いことを明らかに知った。そこで、聞かせていただいたところをよろこび、得させていただいたところをたたえるのである。
8月の御自釈
総序・勧誡
しかれば凡小(ぼんしょう)修(しゅ)し易(やす)き真教(しんきょう)、愚鈍(ぐどん)往(ゆ)き易(やす)き捷径(せっけい)なり。大聖(だいしょう)一代の教、この徳海(とくかい)に如(し)くなし。穢(え)を捨て浄(じょう)を欣(ねが)い、行に迷(まど)い信に迷(まど)い、心昏(くら)く識(さとり)寡(すくな)く、悪重く障(さわり)多き者、特(こと)に如来の発遣(はっけん)を仰ぎ、必ず最勝(さいしょう)の直道に帰して、専(もっぱ)らこの行に奉(つか)え、ただこの信を崇(あが)めよ。ああ弘誓(ぐぜい)の強縁多生(たしょう)にも値(もうあ)い叵(がた)く、真実の浄信(じょうしん)億劫(おっこう)にも獲叵(えがた)し。たまたま行信を獲ば遠く宿縁を慶べ。もし也(また)この廻(た)び疑網(ぎもう)に覆蔽(ふへい)せられば更(かえ)ってまた曠劫(こうごう)を経歴(きょうりゃく)せん。誠なるかな、摂取不捨の真言、超世希有(ちょうせけう)の正法(しょうぼう)、聞思(もんし)して遅慮(ちりょ)することなかれ。
総序・勧誡(現代語訳)
このようなわけで、浄土の教えは凡夫にも修めやすいまことの教えなのであり、愚かなものにも往きやすい近道なのである。釈尊が説かれたすべての教えの中で、この浄土の教えに及ぶものはない。
煩悩に汚れた世界を捨てて清らかなさとりの世界を願いながら、行に迷い信に惑い、心が暗く知るところが少なく、罪が重くさわりが多いものは、とりわけ釈尊のお勧めを仰ぎ、必ずこのもっともすぐれたまことの道に帰して、ひとえにこの行につかえ、ただこの信を尊ぶがよい。
ああ、この大いなる本願は、いくたび生を重ねてもあえるものではなく、まことの信心はどれだけ時を経ても得ることはできない。思いがけずこの真実の行と真実の信を得たなら、遠く過去からの因縁をよろこべ。もしまた、このたび疑いの網におおわれたなら、もとのように果てしなく長い間迷い続けなけらばならないであろう。如来の本願の何とまことであることか。摂め取ってお捨てにならないという真実の仰せである。世に超えてたぐいまれな正しい法である。この本願のいわれを聞いて、疑いためらってはならない。
7月の御自釈
総序・法義讃嘆
ひそかに以(おもんみ)れば、難思(なんじ)の弘誓(ぐぜい)は難度海(なんどかい)を度する大船、無碍(むげ)の光明は無明の闇(あん)を破する恵日(えにち)なり。然ればすなわち、浄那縁熟(じょうほうえんじゅく)して調達闍世(ちょうだつじゃせ)をして逆害を興ぜしむ。浄業(じょうごう)機彰(あらわ)れて釈迦韋提(いだい)をして安養を選ばしめたまえり。これすなわち、権化(ごんけ)の仁(にん)、斉(ひと)しく苦悩の群萌(ぐんもう)を救済(くさい)し、世雄(せおう)の悲、正しく逆謗(ぎゃくほう)闡提(せんだい)を恵まんと欲(おぼ)す。かるがゆえに知んぬ。円融(えんにゅう)至徳(しとく)の嘉号(かごう)は悪を転じて徳を成す正智(しょうち)、難信(なんしん)金剛(こんごう)の信楽(しんぎょう)は疑(うたがい)を除き証(さとり)を獲(え)しむる真理なりと。
総序・法義讃嘆(現代語訳)
わたしなりに考えてみると、思いはかることのできない阿弥陀仏の本願は、渡ることのできない迷いの海を渡してくださる大きな船であり、何ものにもさまたげられないその光明は、煩悩の闇を破ってくださる智慧の輝きである。
ここに、浄土の教えを解き明かす機縁(きえん)が熟し、提婆達多(だいばだった)が阿闍世(あじゃせ)をそそのかして頻婆沙羅王(びんばしゃらおう)を害させたのである。そして、浄土往生の行を修める正機が明らかになり、釈尊が韋提希(いだいけ)をお導きになって阿弥陀仏の浄土を願わせたのである。これは、菩薩方が仮のすがたをとって、苦しみ悩むすべての人々を救おうとされたのであり、また如来が慈悲の心から、五逆の罪を犯すものや仏の教えを謗るものや、一闡提(いっせんだい)のものを救おうとお思いになったのである。
よって、あらゆる功徳をそなえた名号は、悪を転じて徳に変える正しい智慧のはたらきであり、得がたい金剛の信心は、疑いを除いてさとりを得させてくださるまことの道であると知ることができる。